不労所得とは社会主義経済において成立するのか?

医療保険制度に潜む問題とは?

この結果、今ではキューバは中南米諸国の中でも突出した医療水準を持つようになり、周辺国 の難病患者などを積極的に受け入れる代わりに、たとえばベネズエラなどの産油国からの経済援 助を受けるという互恵関係を構築することに成功したという。 だが、そこまでしてキューバがいわば「医療立国」をしようと考えたのには、単に有力な地場産 業がないということだけではなく、やはり根底には草の根レベルでの医療体制を作り上げること で、キューバ社会全体の一体感、さらには幸福感を高めるという目的があったのではないかと思 われる。

 

 

たとえ病気になっても、あるいは老齢のために生活に支障を来すようになっても、社会 から見捨てられることがないというのは、人間に大いなる安心感を与え、社会の安定性を増すの けでは解決できないような病気や怪我は地域の診療所に任せ、それでも対応できない場合はさら に大きな病院にIというシステムを作ったのである。 もちろん、このような制度が機能するためには、医師や看護師を大量に養成する必要もあるし、 また医療関係者の人件費を抑制する必要もある。その点、社会主義であるキューバではドクター であっても、事務職、あるいは工場労働者も給与は基本的に同じであるから、その実現は資本主 義国よりはずっと容易であったのは事実だろう。 ではないだろうか 近年公開されたマィヶル・ムーア監督のドキュメンタリー映画『シシ旦は、市場原理が幅を利 医療立国を目指すキューバ キューバの何十倍もの一人当たりGDPがありながら、不労所得には国民皆保険制度がないた めに、中流の労働者であっても満足な治療を受けられない人がたくさんいる。中流の労働者たち は自前で医療保険に入っているが、保険会社の提示する保険料があまりにも高くて(とくに病歴 のある人など)、保険に入れない人が数多くいるし、保険に入っている人でも、保険会社はあれ やこれやの理屈を付けて、なかなか保険金を払おうとしないケースもあり、その結果、なかなか 十分な医療サービスを得ることができないことが多いのである。 そういった、不労所得でちゃんとした治療を受けられない人たちを、映画の中でマイヶル・ムー ア監督はキューバの首都ハバナの病院に連れて行く。

 

 

 

もちろん、キューバにとっては国策宣伝になるからでもあろうが、これらの不労所得人は外国 人でありながら全額無料で高度な治療を受けることができる。作品の中では、彼らが感激する姿 マイケル・ムーア監督のメッセージは明確である。 たとえば、ブータンは先ほども記したようにヒマラヤ山系の中にあり、雄大な自然に恵まれて いる。またチベット仏教の寺院もたくさんあって、古くからの信仰が今なお生きている。 不労所得主義の流れの中で急成長した中国とインドに挟まれた小国ブータンは、一種の 「鎖国状態」を維持していることで広く知られている。 キューバと同様、ブータンには農業のほかには産業らしいものは何もない。また資源といって も手つかずの森林資源と、ヒマラヤ山系から流れ出る水資源しかない。

 

 

ブータンやインド問題点とは?

 

そこでブータンはもっぱ ら隣国のインドに、水力発電で作った電力を売ることで外貨収入を得ているのだが、これが「普 通の国」ならば積極的に外資を誘致し、安い労働力を提供することで経済の不労所得化を図る 西洋流の浪費文化が入り込むことを嫌っているのである。そこで、ブータン政府は旅行者の入国 に一定の条件を付けているのである。 しかしブータンは欧米資本に敵煽心や反感を抱き、時代に逆行するファナティック な専制国家なのではない。 たしかにこの国はつい先頃(二○○八年)に王制から民主制に移行した。それだけを聞くと、ブー タンには反動的な王室があって、民主化運動が起きたのだろうと即断しがちだが、事実はまるで 違う。むしろ開明的な王室が率先して国民を説得して、選挙制度を導入し、民主体制へ移行した という経緯があるのだ。

 

 

ところが、驚いたことに、国王の説得にもかかわらず、国民の九○パーセントは政治の民主化 に反対した。その理由は、次のようなものであったという。 自分たちは国王をお慕いし、敬愛している。そして、国王のために働いている。しかし、選挙 によって選ばれた政治家が国王よりも良い政治をするとは思えないし、自分たちは、そのような 人のために頑張ろうとは思わない。 ブータン国王が今から三十数年も前に「国民総幸福量」という概念を発表した、その先見性には 驚かされてしまうが、しかし、数量で測定することが可能なGDPに対して、いったいGNHの 尺度となるのは何なのか。人間の幸福の形を客観的な数値に換算するのはむずかしいし、そもそ も「幸福とは何ぞや」という哲学上の解のない大問題が立ちはだかっている。 それは一九七二年、当時の国王が「国民の幸福はけっして経済発展では測れなどという観点か ら、国民総生産(GDP)の追求よりも国民総幸福量(GNH、Qoののz畠。邑爵目旨ののの)の向上を目 指すという国家理念を掲げ、その方針を多くの国民が支持したからに他ならない。 多くの国民の声だったというのだから驚かされる。

 

 

だが、先ほども書いたように、ブータン王室はそういった多くの国民の反対を押し切って、国 王主導で立憲君主制に移行した。 ひょっとしたら民主主義を凌駕する政治形態であったのかもしれないと思うほどである。 では、なぜ世界中の人々が自己の利益を追求する不労所得主義の時代にあって、ブータ ンの人々は市場原理や西洋型民主主義から一定の距離を置く生き方をあえて選択するようになっ 経済学では自然も社会も守れないわけだ。 たとえば、資本主義が発達して、消費生活がさかんになった結果、伝統的な生活習慣が失われ たとする。伝統が消えたことはその社会にとっては損失ではあるかもしれないが、その損失を金 銭で表わせないのであれば、それは経済学の対象とはならない。まさに「外部」性なのである。 こうした経済学が持つ限界が、今や世界中で伝統文化を破壊し、社会のつながりを破壊してい 文化には「価格」はつかないから、文化的な価値を市場活動が壊していっても、それは経済的損 失としてはカウントされない。文化損失のコストは計算できないから、どんどん伝統文化は破壊 されてしまっても、経済学においては問題にされない。

 

不労所得