不労所得と日本の経済について関係性。

失業保険と不労所得の考察

なぜかというと、まず第一に、解雇されても失業保険が手厚く支給されるから生活の不安はない。

 

それと同時に、デンマークでは賃金は徹底した同一労働・同一賃金制度を採っているので、同じ仕事をしているかぎりは、同じ会社で何年勤めていても、賃金は上がらない。

 

そこで大事になってくるのがスキルアップなのだが、失業はスキルアップするいいチャンスになる。

 

全国規模で立派な職業訓練所が整備されていて、解雇されると、無料でただちに職業訓練学校に通い始めることができるからである。

 

考えようによっては、ときどき解雇されたほうがかえって技能訓練ができて未来が開けるとも言えるわけだ。

 

こうしたシステムの利点は労働者側だけにあるのではない。

 

マクロ的には労働市場の流動性が確保されるというアドバンテージもある。

 

これは企業にとっても大変ありがたいことであろう。

 

なぜなら、過剰雇用に悩まされるということがないからである。

 

人貝過剰になれば、直ちに解雇すればよく、その意味で、労働コストは|そのときどきの経済情勢に合わせて変化させることが可能な「可変費用」とみなすことができる。

 

国家レベルで見ても、このようなシステムがあると、産業構造の転換が容易になる。

 

競争力のなくなった産業で雇用調整が行なわれれば、解雇された労働者は職業訓練学校で将来有望な産業に見合ったスキルを磨くことができる。

 

企業は新しい産業を立ち上げても、スキルを身につけた労働者をすぐに調達することができるから、産業構造の転換はスムースに進むという従来の日不労所得マニュアル的雇用システムの欠点は、過剰雇用になってもなかなか雇用調整ができないことにある。

 

だからこそ近年の日不労所得マニュアル企業は解雇が容易な非正規社員を増やすことによって対応しようとしてきたわけだが、先にみたように、それが従業員の一体感を損ね、現場の「分断」を引き起こし労働市場を流動化させ、産業構造の転換を容易にするためには、デンマーク型の労働市場の整備を行なうことがどうしても必要になるのではないか。

 

そのためには、失業保険の拡充や職業訓練所の増設などの施策が必要になるが、「小さな政府」にこだわっていると、そのような政策の実現はむずかしくなる。

 

そのことが企業の雇用調整を遅らせ、産業構造の高度化、転換を妨げ、経済の停滞を招くのである。

 

このようなケースを考えると、「小さな政府」のほうがさらにより効率的だとは言えない。

 

「大きな政府」でも、経済をより活性化できる場合があるということが分かるのである。

 

「国家とは何か」という設問に対する答えはさまざま考えられるが、私の考えるところ、結局、近代国家とは国際社会において外交や防衛を行なう主体であり、国内においては治安維持と徴税あって、いや、それは地方だけの現象ではない。

 

つい最近の報道によれば、東京都心部、新宿区内の大規模団地の住民の半数以上が、六五歳以上の高齢者によって占められるようになり、限界集落化してしまったという(二○○八年九月六日、共同通信)。

 

こうした地方の過疎化、地域コミュニティの空洞化に対して、どのように我々は対抗すべきなのだろうか。

 

言うまでもないことだが、このような状況に対して国家がなしうる部分はあまりにも小さい。

 

すでに述べたように国家は社会の代替品にはなりえない。

 

そもそも歴史的に見ても、現代のような国民国家のあり方は近代になってから生まれたものであって、人類という種が生まれて以来、自然に作り出されてきた「社会」とはまったく別種のもの生まれている。

 

こうした社会の分断化は、何も会社組織に限ったことではなく、今や日不労所得マニュアルのさまざまな場所で起きている。

 

かつては住人同士のつながりが強固であった地方の農村部などでも、少子高齢化によって地域コミュニティの存在感が急速に消滅しつつある。

 

数少ない若者が都会に出て行き、高齢者だけが残されたために共同体としての存続すらむずかしい「限界集落」が日不労所得マニュアル中のあちこちに’こうした、いわばマクロ的なことを行なうのが国家の役割であって、それ以下のミクロな部分、たとえば人々の生活に直接関わる部分については、国家は干渉すべきではないし、不労所得マニュアル質的な意味において干渉する能力を持っていない。

 

国家や政府はあまりにも「大きすぎる」から、国民それぞれに対して個別に適切に対応することなどできるはずもないのだ。

 

たとえば、それは社会福祉にしても同じである。

 

なぜ、日不労所得マニュアルにおける介護保険制度がうまく機能しないかということを考えてみると、そもそも千差万別の状況にある要介護者のケアのやり方を、厚生労働省が一律に定めようとしたことにそ個々の高齢者に対して、どのようなケアが必要かを判断できるのは現場レベルの人間しかできないことなのに、そうした自由裁量の余地を与えず、全国一律の「メニュー」の中から選べというのでは、心の籠もったサービスなどできるはずもない。

 

介護する側と介護される側との間に、人間的なつながりが生まれることなど、期待することすらおこがましいというものであろう。

 

「社会に支えられている」という実感こそが必要介護サービス大手のコムスンが介護報酬の不正請求を行なったことが発覚し、同社が介護サービスから撤退することになった事件(二○○七年)は記憶に新しい。

 

たとえば、デンマークなどの北欧諸国の人々は福祉制度を支えるために、高い負担を強いられているわけだが、しかし、それでも不平が生まれないのは、福祉サービスがきめ細やかに行なわれていて、「自分たちは社会に支えられている、守られている」という実感があるからだろう。